先日、自分の文章に対するヘコむコメントを見かけて、どう気持ちを切り替えばいいのか考えた。
思えば「反論する」というのも選択肢のひとつではあるけれど、正直大人げないと思うし、火に油を注ぐイメージしかない。
新刊『「書くこと」で理想の暮らしを手に入れる ゼロからはじめる情報発信の教科書』(ヒトデ)に、炎上や批判に対する考え方が載っていてとても分かりやすく、説得力があった。
万人に受け入れられる考えなど存在しない
そもそも、多様性の時代に、誰も傷つけない発言なんてあるのか。
例えば「りんごは美味しい」と発言したとします。一見、何の問題もない発言ですが、これに対して
「いや、ブドウの方が美味しいだろ」
「私はりんごって好きじゃないです」
みたいな発言がやってくるのがインターネットです。
さらに悪化すると、「ナシのことをバカにしてるんですか?」「王林も食べずにりんごの美味しさ語るとかニワカかよ」「はいはい、りんごを買えるくらい家計に余裕があっていいですね。私は半額の弁当で精一杯です」「あなたは軽率に美味しいと言いますが、りんごアレルギーでりんごを食べられない人の気持ちを考えて投稿してください。不快です」といった意見だって来ます。
「りんごは美味しい」という感想ですら、燃やそうと思えば燃やせてしまう時代。
これは極端にしろ、菜食主義者は焼き肉食べたという投稿が不快だろうし、推しのコンサートに外れたファンは、当選を喜ぶニワカに苛立つ、というのはよくある話だろう。
たとえ、できうる限り全方面に配慮した文章を考えたとしても「長文ウザい」「自分がないのか」「八方美人」という言葉が飛んできそうである。
批判的意見は聞く場所を間違えないこと
本書では、とにかく「争わない」姿勢を大切にしていた。配慮しても、反論しても、その一言がまた新しい火種になるからだ。
ブロックの場合は相手が逆上してしまうこともあるから、非表示にして目に入らないようにすることがいちばん。
しかし「批判と非難(誹謗中傷)は違う」という意見もある。批判にきちんと耳を傾けるのは、自分の成長のためにも大切なこと。
たま~~~~に役に立つ発言もあるかもしれませんが、それを探すために誹謗中傷を受けて傷つきながら、全部を精査なんてしていられません。(中略)つまり、「批判的な意見も受け入れろ」という発言には一理ありますが、それは信頼できる人から受け取ればいいだけです。逆にいうと、信頼できる人に直接言われたなら、どんなに頭に血が上っていても一度考えたほうがいいということですね。
たとえ善意であっても、匿名の批判を受けとるのに多くの誹謗中傷で傷つかなければいけないのなら、冷静に考えて費用対効果がよくないよね、という話。
信頼できる人に意見をもらったほうが、きちんと耳を傾けられるというのもあるだろう。
もういっそ、SNSもブログも止めて、自ら発信しないのがいちばん安全なのは間違いない。
けれど、そもそも現実じゃ近くにいない共通の趣味嗜好の人と繋がれる場所がSNSじゃなかったか。
最初の目的に立ち返ると、やっぱり「りんごは美味しい」と言わなくちゃ、なにもはじまらないのだ。