最近、ChatGPTの画像生成機能が大きく進化した。
日本語の文章がそのまま画像内に表示できたり、写真をもとにイラスト風に変換できたり、背景を透過して出力できるようになったり。
実際に試してみたけど、思わず「エグ…」と声が出るほどのクオリティの高さ。今のAIはここまできているのかと、技術の進化に震えた。
SNSの反応に感じた“スン…”という気持ち
しかし、SNSで広がっていたのはネガティブな空気。
あまりに感情的で強い言葉の数々に、少しでも技術に対する高揚感を覚えていた私は、スン…としてしまった。
大前提として、クリエイターの権利は守られるべきだ。AIの学習元データが正しく扱われているのかという疑問や不安が生まれるのは当然のことだと思う。
日本経済新聞で読んだオープンAIのスタンスは、生成された画像が著作権侵害にあたる可能性を「利用者側の責任」に位置付けている。
オープンAIは、AIの生成物が他者の権利を侵害する場合はユーザー側に責任があるという考え方だ。利用規約は利用者に対し、他人の知的財産権などを侵害しないよう求めている。*1
「いやいや、そもそも学習に人の作品を無断で使うなよ……」というのが、SNSの反応で多い印象。
オープンAIという企業に対する真っ当な意見であると思う一方で、実際に画像生成をしてみて、果たしてAIが人の権利を守るために学習を止めることはできるのだろうか? という疑問も浮かんだ。
技術の進化という観点で見ると、AI側の学習を一部制限したり止めたりすることは難しいように思えるし、利用者に倫理と責任を求めるというスタンスこそ大切で、技術ではなく悪用しようとする人たちへの規制を考えるフェーズに入っているのではないかな。
「正しいこと」って、そんなに強くていいの?
ここで私がふと思い出したのが、中山七里の『超合理的!ミステリーの書き方』という本に書かれていた一節だった。
僕が心配しているのは、正しいことはやるべきだけれど、やり方を間違えると危ないよなっていうことです。今現在、あまりに尖った正論ばかりを言いすぎたために逆襲にあっている人たちもいるんですよ。もちろん不公平だとか差別といったことは撤廃されなきゃいけないけれど、感情に任せて行動すると必ず失敗する。正しいからといって、感情的になってどんな発言をしてもいいというわけじゃないでしょう。
「正論は正しいけれど、それを振りかざすことは正しくない」ということだ。
特に、SNSでは正しさの競争が起きやすい。氏の言葉をさらに借りると、「それがいかに正論であっても、あまりに過激だと揺り戻しがくる」。
正論が強くなり過ぎて、本当に守るべきものを見失わないか。それが怖い。
感情と技術のあいだを考え続けること
今後も、AIはさらに進化していくだろう。
もはや「使う/使わないか」ではなく、考えるべきは「どう使うか」。
私自身はこれからも画像生成AIの可能性に素直に驚きながら、ユーザーとして慎重に利用していきたい。
クリエイターの権利を守らなければならないのはAIではなく、使う人だと思うから。