三面記事から生まれた恩田陸の『灰の劇場』抵抗を覚えつつも惹かれた理由

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不思議だった。好きな作家で、他の作品と雰囲気が違うというわけでもないのに、途中で読む手がピタッと止まってしまう。

時間が空いて、もう一度最初から読み始めるのだけど、結局また、途中で読むのをやめてしまう。

そんな恩田陸の『灰の劇場』を、3度目の正直でようやく読み切った。

読み切れた理由は、シンプルに「今回こそ、絶対に読み切るんだ」という意識が強かったからだと思うのだけど、未読部分に突入して読めなかった理由がなんとなく分かった。

考えてみると、これまで私は主人公が最後に死んでしまうという話をほとんど書いたことがない。(中略)しかし、今書こうとしている小説は、最後に二人のヒロインが死んでしまうことが最初から決まっている。

『灰の劇場』は、一緒に住んでいた女性二人が橋から飛び降りたという三面記事を元に作られている。

その記事が心に刺さり続けていた作家のノンフィクションと、女性二人が死に至るまでのフィクションを織り交ぜた構成で、最終的に彼女たちが世界から退場してしまうという決定事項に、先を読むのがおっくうになっていたのだ。

そして不思議なもので、いずれ読み返したいと思う本は多々あるけれど、『灰の劇場』は読み終えてすぐ、衝動的に読み返したい気持ちになった。もう一度、彼女たちが生きている世界に時間を巻き戻したい。

現実は小説より奇なりというけれど、あとがきで示された事実には血の気が引いてしまった。

そして恩田陸作品のファンだから、という理由は確かにあるけれど、どうして抵抗を覚えつつも、読み切りたいと惹かれたのか。

共感という言葉じゃ足りないくらい、自分が抱いたことのある感情とシンクロする文章が多かったからだ。

例えば、なぜ地方出身者が東京に行きたがるのか。

一千万都民の匿名の一人でいられる。地方出身者が東京を目指すのは、とにかく匿名になりたい、「誰それの娘が昨日あそこにいた」と名指しされることのない場所に行きたい、というのがいちばんの理由だろう。

そうなのだ。「何者か」になりたくて、憧れて東京に出てきたというのは本当のことじゃない。

少なくとも、私の「田舎がイヤだから」という言葉の裏には、「みんな、もうほっといてくれ」という感情が隠れていたのだと、『灰の劇場』を読んでいて唐突に言語化できた。

物語の性質上、遺書の話題も出てくる。

子どもの頃に、遺書(のようなもの)を書いたことがある。(中略)唯一はっきりと覚えているのは、あたしのお気に入りだった熊のぬいぐるみは捨ててください、と書いたことだ。
妹が欲しがっていたけれど、誰にもあげません。あれはあたしのものなので、あたしがいなくなったら、しょぶんしてください。

ノンフィクション部分で登場する、幼いころに書いた遺書のエピソード。ずっと忘れていたのに、自分も書いたことがあるのを思い出した。

それは両親への当てつけだった。姉という立場への不満だった。

それは「書置き」というほうが正しかったかもしれないけれど、子どもが家を飛び出しては、生きてはいかれないだろうという予感。腕で乱暴に涙を拭う。

しかし、泣きながら書くという行為で、渦巻いていた毒が吐き出され、最後には誰にも読ませない手紙と後ろめたさだけが残った。

あの時の、高揚して泣きながら「書置き」をしたためた子供はもういない。
今ならば、分かる。
遺書や手記を残すのは、まだ世界を信じているからであると。あるいは、まだ世界をーーあるいは、まだ自分を愛しているからだと。

現実で遺書を残すのはまだずっと先になりそうだし、もしかしたら書く暇もなく逝ってしまうかもしれない。

けれど自由意思で選べるのなら、きっと私は自分がいなくなった世界に、何か言葉を残していきたいと思うだろう。

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