巷にあふれる短い料理動画が実験のようだ、というエッセイを読んだ。*1
意外な組み合わせや、えっこれだけで? というシンプルな調理方法に、おいしそうよりまず「試してみたい」という気になるからだ。
たしかに、“煮込み風”よりも、時間をたっぷりかけて実際に煮込んだ方が味の深みが違うだろうし、なんだかこの頃「おいしいものを作ろう」という視点を忘れていた気がする。
凝ったもの=おいしいものというわけでもない
手抜きだ時短だがよくないとは思っていない(むしろ助かる)。
そもそも、仕事を終えてから凝った料理を作る余力はないし、楽しいわけがないというのが本音。かといって作らないのもイヤはイヤ。
たとえば春。新じゃがを皮ごと切って、オリーブオイルと塩をあえる。220度のオーブンで40分。時間は少しかかるけれど、ほとんどほったらかしでいいからラクだ。
シンプルでも食卓にあったらお酒が進むし、季節を感じられて「おっ、いいねぇ、新じゃが」と表情も明るくなる。
実験でもいい、工夫することを忘れたくない
件のエッセイがなぜこうも心に残ったのかというと、「おいしいものを作ろう」という視点が欠けていたのと同時に、夫に対して「それでも、作ってあげたんだから」という態度を当たり前にしていたかも……と反省を覚えたからだ。
終日働いた平日って、本当に疲れる。けれど、そんな夜の食卓が、生きるための、とりあえずの食になっているって、なんだか味気ないよなあ。
ある意味、実験でもいいのだと思った。「試してみたい」には必ず理由があるわけで、そのワケを考えたり、アレンジしてみたり、ただ受け身ではなく、自分の頭で考えるクセを持ちたい。
ふと思い出した文章を引用する。
人生の質はつねに喜ぶことのできる能力に比例している。喜ぶことのできる能力は、日常の細部に目をやることによってもたらされる贈り物なのだ。
『新版 ずっとやりたかったことを、やりなさい』(ジュリア・キャメロン)
食卓に何が並ぶかではなく、自分が何を並べるかという視点があれば、実験ばかりの日々も、小さな成功の積み重ねに喜びを見つけられそうである。