今年のゴールデンウィークは何もないな〜と思っていたけど、終わってみると三島由紀夫の『金閣寺』を読んだ余韻が深い。
個人的な印象としては、金閣を燃やさねばならぬ「私」の青春小説だった。
鶴川や柏木といった同世代の“友人”から、少なからず影響を受け、自分というものを深めていく過程。
「私は」「私は」の物語だけど、かえって人間というのはひとりきりで形成されていくものではないのだと思った。
なぜ金閣寺を燃やさねばならぬのか
殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。
金閣寺のマイベストフレーズ。これが唯一の正解とはいわないまでも、「私」が金閣寺を燃やすひとつの理由としては確かだろう。
例えば、汚職まみれの偉い人をひとり消したところで、似たり寄ったりな悪人は湧いて出てきていたちごっこにしかならない。
けれども、やつらが共通してあがめている一点を潰してしまえば、それは人類のようにそう簡単に蘇生はできないのではないか。
現実に自暴自棄で何かを巻き添えにして心中しようとする事件があるけれども、三島由紀夫の『金閣寺』を同列に並べることはできない。
むしろ誰の青春時代にも、燃やさねばならない金閣寺はあったのだ、と思う。
「おのれ自身を知れ」とは愚の骨頂
『金閣寺』からしばらく経って、澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』に手を出した。三島と交流の深かった文化サロンの住人で、耽美や幻想、倒錯を知的に愛しているひと。
エロティックなカルト的主張というのではなく、ざっくり要約すると「本当の幸せ(満足)とはなにか」という内容だった。
幸福とは、あくまで「現実原則」に拘束された欲求の満足なので、持続的ではあっても、激しさに欠け、さらに個人のせまい主観や信仰の色めがねによってながめられることが多い。そしてほとんどの場合、即座の満足を避けて、ひきのばされた満足を求める消極的な傾向である
せまい意味で幸福とは、苦痛を回避すること(消極的な満足)で、快楽主義は積極的に満足を望んでいこうとする姿勢、といえる。日本人は禁欲的で、自らの積極的な満足をよしとしない。
印象的だったのが、「第2章 快楽を拒む、けちくさい思想」のなかで引用されるフランスの小説家アンドレ・ジイドの言葉。
「おのれ自身を知れ。この金言は、有害であるとともに醜悪でもある。自分自身をよく知ろうと苦心する毛虫は、いつになっても蝶にはならないはずだ。」
大切なのは自分を知ることではなく、自分という殻を破ること。自分を知ろうとすればするほど、小さなことしかできなくなるから、むしろ限界を叩き壊してゆけ、と。
「分からない」ではなくて「知りたい」を優先する
考えずに手を動かして書くモーニングページのなかで、私はよく「分からない」という。
「自分が分からない」「何をしたいのか分からない」「これからどうなるのか分からない」分からない、分からない……
三島や澁澤の本が頭の隅にあり続けて、ある日のモーニングページで突然「それって、知りたいってことですよね」と気がついた。
「分からない」「知りたい」は裏表みたいに近い言葉だけど、気持ちの向き方が違う。
不安や問題意識で埋め尽くされる「分からない」から、積極的で好奇心に満ちた「知りたい」に意識を向けることは、快楽主義に一歩近づくことのような気がする。
何より、「知りたい」という言葉を発見して、次の日のモーニングページを開くのがずっと楽しみになった。
「今日はどんなことを知りたいかな?」
自分探しをするよりも、自分の目を通して惹かれる物事を追いかけるほうが楽しいと思える今日この頃だ。