私を縛っていたのは“家族”ではなく“怒り”だった。感情の牢獄から抜け出す方法

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執着の問題は、対象そのものではなく、その人自身の「感情」にある。

だから、執着している人やものが物理的に消えても根本的な解決にはならない。次なる対象を見つけて、同じ苦しみを繰り返すだけなのだ。

少し前に読んだ『「もう傷つきたくない」あなたが執着を手放して「幸せ」になる本』(根本裕幸/学研プラス)に書かれたこの内容を、最近になって痛感する出来事があった。

「絶対に許さない」怒りが自分を縛っていることに気がついた

いま現在、実家のトラブルに巻き込まれている。

巻き込んでくるくせに、聞く耳は持たない。やり取りを重ねるほど、虚しさが募ってゆく。

妹たちから「帰ってきてほしい」と頼まれても、電話口でうまくはぐらかすしかなく、そのたびに(こんな姉でごめん)という自己嫌悪に苛まれる。

勘弁してくれよ〜〜〜、こっちの平穏な生活乱さないでくれ!!!!!

「家族(実家)の犠牲になりたくない」「過去に受けた仕打ちを絶対に許さない」。

モーニングページ(朝書くルーティン)に思いの丈を書き殴っていたら、どの思いも怒りの感情に根ざしていて、自分は家族というより、その怒りに縛られているのでは? と『「もう傷つきたくない」あなたが執着を手放して「幸せ」になる本』の内容が思い出されたのだ。

実家からマリオネットのようにコントロールされている、という思いが怒りの根本で、激しく抵抗すればするほど操り糸に絡まり身動きできなくなる。

抵抗しては消耗し、逃げ出せたかと思えば不意打ちで糸を引っ張られ再び激しい憎しみを覚える、の繰り返しーー。

けれども、これらのイメージと感情は私が生み出したものであり、対象とは関係ないと気がついたとき、実家と関わることへの拒否感が嘘のように薄らいだのだ。

コントロールはできないし、させない。流れに身を任せる

そもそも客観的に考えて、自分が実家に支配されているかというと、むしろ両親からはアンコントロールな存在、と認識されていると思う。

最たる例が、いくら地元に連れ戻されそうになろうと、物理的に離れた東京で生活していること。思えば近くにいたときも、反発の日々だった(だから離れたのだが)。

一方で、私からも実家はコントロール不能な存在だ。

力尽くで挑んで、心へし折られたこと数知れず。二日酔いの後悔みたいなもので、繰り返しては同じ無力感に苛まれる。

そうなのだ。お互いにコントロールはできないし、させない。

怒りが湧き上がるのは仕方がないにしても、その感情は彼らとは関係がなく、引きずるか手放すかは、私次第だ。

いくら怒ったところで、起こってしまったトラブルに関わらずに済むという道はなく、激しく抵抗して疲れるよりも、流れに身を任せるほうがよい、と悟りに近いものをようやく見つけたのだった。

自分を捕らえていた感情の牢獄は内側から開けられる

不意に頭をよぎっては、目の前の生活に集中できなくなる。そうやって私を縛っていたのは“家族”ではなく、“怒り”なのだ。

そのからくりに気づいたことで、縁切りという極端なことも、溜飲が下がるようなスカッと展開もいらない、むしろ欲しくないと思えた。

時には家族と呼ぶのもいやになるほど、困った人たちだ。

けれども、怒りの感情を手放して見つめたとき、やっぱり私には愛おしい思い出もたくさんある、他にはない家族なのだ。

まだ開放されて、出口を見いだせたというほどではないけれど、改めてどう生きるかは自分で選んでもいいと思えるきっかけになる1冊だった。

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