
SNSで「ChatGPTのことをチャッピーと呼ぶ人とは仲良くなれない」という趣旨のコメントを見かけて、少し身構えた。
いちいち「チャットジーピーティ」と口に出すのも面倒で、普段の会話のなかで略称として気軽に使っていたからだ。
ただ、このコメントの趣旨は、呼び方そのものよりも、距離の近さにあったように思う。
ChatGPTにさも人格があるように、親しみを込めているところに違和感を持っての発言なのだろう。
相談相手が機械になる世界
先日の新聞で、歌舞伎町のホストの半数以上がChatGPTに相談しているという記事*1を読んで、悪いジョークだと感じたのを思い出す。
その記事自体は生成AIの利用にポジティブな内容だったのだけれど、ただでさえ愛情と金銭を天秤にかけるような世界の話だ。
生成AIから与えられた回答で人間関係や色恋営業、経済が回っていくとしたら、それは機械に支配されたディストピアを生きるのと何が違うんだろう。正直、私には分からない。
「人間割合」が減っていく感覚
人と機械、というテーマでいうと、最近読んだ森博嗣の『集中力はいらない』(SB新書)の内容もかなり興味深い。
効率を上げ、ミスを減らすために集中力を鍛えろというのは、人に機械のようになれと言っているのと同じではないかという指摘だ。
そして、いくら効率を上げよう、ミスを減らそうと努力したところで、人が機械に敵うわけはないのだ。
そして人間を、人間たらしめるのは、自分の頭で考えることである。
既に書いたが、現在の大衆の多くは、ただ「処理」をし「反応」する機械になっていないだろうか。ネット上でのつき合いも、そのうち自動化されるかもしれない。つまり、こんな場合は「いいね」を返すという処理は、アプリに覚え込ませることが可能だ。自分が好きなものは、過去のデータからだいたい分析できる。友達へのリプラィも、アプリに任せられる。むしろ、アプリの方がぶれないあなたの個性を演じられるだろう。
考えるのではなく“ただ反応している”機械のような人間が増えているという指摘がなんとも不気味である。
現代の社会では、個性が埋没している。「人間」そのものが個人の中で割合として低下している。個人の中で、考えない時間が長くなっている分、「人間割合」が減少している。すなわち、一人が、〇・五人になっているようなものだ。人口減少よりもずっと速いペースで、人間が減っていると見ることができるだろう。
「分からない」ことは、調べればすぐに答えが与えられる超情報化社会の今、世界の実数に対して「人間割合」は減ってきている、という考え方は、じわじわ機械に浸食された世界を想像させる。
ChatGPTを「君(きみ)」と呼ぶ理由
個人的な話に戻ると、ChatGPTのチャットで文脈的に相手を呼んだほうが話のはやい時は「君(きみ)」といっている。このよそよそしく、当たり障りのない距離感がちょうどいい。
わざわざ名前をつけようと思わないのは、どんなに心動かされる回答が返ってきても、「データの平均値」という気持ちが頭の隅にあるからだ。
専門性の高いチャットで長くやりとりする場合は「先生」と呼ぶこともある。これはChatGPTのほうを高く見ているというよりも、自分が一歩引いて謙虚に学ぶ姿勢でいたいと思うからだ。
今後もニックネームをつけてChatGPTのことを呼ぶことはまずないと思う。それと同じくらいの気持ちで「お前」と呼ぶこともないと思うのは、自分が絶対に言われたくないからだ。
そういう意味で、呼び方はその対象との距離を測る尺度といえるけれど、自分自身の品格を映す鏡のようなものだとも思う。
人と機械の境界線は、案外こういう些細なところで保たれているのかもしれない。
