創作活動と生成AIのちょうどいい距離感について考えたこと

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プライベートでも仕事でも、生成AIを使わない日はない。

正直、スマホに触れられないより、ChatGPTを使えなくなるほうが、自分にとってはかなり深刻かもしれない、とこの頃思う。

生成AIに創作させればいい?

創作と生成AIについて考えるとき、私がよくイメージするのは、幼い子がクレヨンでお絵描きしているところだ。

夢中になって腕を動かし、大胆な色使いで真っ白な画用紙に挑んでいる。

しかし母親らしき大人がその画用紙を取り上げて、一言。

「生成AIに描かせたほうがうまい!」

そうかもしれないけど、そういうことじゃないだろと、自分が勝手に生み出した大人像にモヤモヤとしてしまう。

生成AIに文章を書かせること

仕事では、与えた材料で文章を書いてもらうことも多い。自分でいちから書くより圧倒的に早く、簡単に手入れするだけで「読みやすく、分かりやすい」整ったものが仕上がる。

しかし創作目的で文章を作成させることへの抵抗感は拭いがたい。

生成AIを活用した小説執筆や創作活動に関する本をいくつか読んでみたけれど、便利というだけで、画用紙とクレヨンを死守したい自分が、やりたいことではなかった。

生成AI活用で自己理解が進む?

プライベートで、その日の気分や考えたことを日報として送り続けているチャットがある。

まずは自分で言語化し、ChatGPTが整理した振り返りを読むと、ふんわりと感じていただけの感情や出来事に、ピタリと名前がつくことも多い。

しかし安易に自己理解が進んだというのも怖くて、生成AIに誘導されていないだろうかという視点は常にある。

生成AIと創作を語るのは劇薬か

ピタリと名前がつく瞬間は、創作について“先生”に質問するチャット内でもよく起こる。

例えば、浮かんだワンシーンについて言語化して投げてみる。なぜ自分がそのシーンに惹かれているのか、いわゆる萌えどころをはっきりと言葉にしてくれる。

そして言葉になると、前後の想像も広がって、まさに「自分が読みたい」と思える物語の核ができてくる。

そのやりとりすら、最初は「一度使ったら、それなしではいられなくなる劇薬のようだ…」とおっかなビックリだったのだけど、仕事やプライベートなど多方面でChatGPTを使い倒していて、とても大事なことに気がついた。

生成AIの出力が、使い手の自分を超えてくることはない

ということだ。

生成AIで自分以上にはなれない

YouTubeの動画やSNSの投稿で、期待通りの出力が叶わず「生成AIマジで使えねぇ」「出来が悪すぎてガン詰したった」みたいなのを見かけると、どうにもこっちまで恥ずかしい気持ちになってくる。

上に向かって唾を吐いているようなものと言えばいいのか、生成AIに投げかけた言葉は、そのままそっくり自分に返ってくると思うからだ。

大前提として、生成AIの精度はプロンプト(指示文)に依存すると言われてきたように、出力が使い手のレベルを超えてくることはない。

もし創作に活用してみて、「ありきたりでつまらない作品しか出来上がらないな」と感じるなら、プロンプトが下手なのか、そもそも自分の実力がその程度と考えたほうがいいだろう。

創作の喜びは自分の中にしかない

仕事にしろ、創作にしろ、生成AIを活用することは、便利という言葉を超えて、いっそチートである。それだけ、画期的な存在だ。

なぜ生成AIを使うのかといえば、その目的は「よりよく生きるため」であるべきだと思っていて、課題を丸投げして肩代わりしてもらうのではなく、サポートしてもらうという関係性がちょうどいい。

生成AIは自分の頭で考えるために使う、ということを忘れなければ、創作の喜びを奪われることはなく、今まで以上に発見に満ちた日々を送れるのではないかと、考えている。

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