どうして「書きたい」のか思い出す

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振り返ると、「書きたい」という気持ちは、お金や賞が貰えるかもしれないと考えるよりずっと前から確かにあった。

おそらく小学生くらい。どうして「書きたい」と思うようになったか考えてみると、「好きだから」というより「口下手だから」だった気がする。

自分の気持ちを伝えたいが、イコール「書きたい」だった。

『神・文章術 圧倒的な世界観で多くの人を魅了する』を読んだ。人気はてなブロガー、フミコフミオの書籍で、正直まず彼の記事を見かけて「面白いなあ、あ、この人本を出しているんだ!」の流れでなかったら、基本的に手にしない感じのタイトルである。

読んでみると、若干のこってり感はあったものの、「書くこと」への絶大なる信頼感が伝わってくる1冊だった。

主旨は「書き捨て」という独自のメソッドから、「世界観のある文章で物語る」こと。ブログやエッセイに限らず、創作にも活かせそうな内容である。

このメソッドは「書き捨て」というように、書いたものを捨てるのが前提だ。誰にも読ませないから何でも自由に書ける、という部分は、日課のモーニングページに通ずるものがあるけれど、書いたものを物理的に残さないというのは特殊だ。

あと、モーニングページは頭にあるものを吐き出す気持ちで手を動かすものだけれど、「書き捨て」はテーマを持ってひとつのことを掘り下げる、分解して自分の言葉に置き換えていく。そして、捨て去ることで熟成させる。

正直、せっかく書いたものを捨てるというのに抵抗感を覚えて、自分には合わなそうだと読みきるか悩んだ。

けれど、あれよあれよと最後のページをめくるころには、ぜひ「書き捨て」をやってみようという気持ちになった。自分が何のために「書きたい」と思うのか、この本を読んでいて我に返ったからだ。

「書きたいから書く」という気持ちを大切にする。「読まれたい」「バズってみたい」などと、他人から評価を得ることを目的にしない。(中略)「読み手を意識した文章は書いていても面白くないうえ、つまらないものになりがち」ということだ。

自分の言葉と世界観で物語る文章を作る。それは、上手くおしゃべりできないけれど自分のことを知ってほしいと思った幼きころの自分にとっての「書きたい」のメソッドといえる。

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