新品のまま積みっぱなしの『すべてがFになる』を差し置いて、kindleで森博嗣の新書『夢の叶え方を知っていますか?』を読んだ。人気小説家の言葉で、「夢の叶え方」が言語化されているって、興味がある。
さすが、リアルに博士というだけあって、理路整然としていた。漠然として掴みどころのない夢の正体が、クリアになったような読後感。
それは本当に自分が「見たい夢」?誰かに「見せたい夢」では?
そもそも、小説家になりたいという夢の大部分は、「小説を書きたい」でもなく、「小説を仕事にしたい」でもなく、「小説家としてみんなから注目されたい」であることが多い。実に多い。ほとんどそれではないかと思うほどだ。
同様に、「ハワイへ行きたい」という夢も、実のところは、ビーチで自分の写真を撮って、それをネットでアップしたい、という願望が先頭に立っている。「見たい夢」ではなく「見せたい夢」でしかない。
人は社会的な生き物だから、他者からの影響は避けられない。
夢についても同じで、「叶え方」以前に、まず本当にそれが自分の「見たい夢」なのか、立ち返る必要がある。
そして「見せたい夢」だった場合、そもそもそれは本当の夢ではない、かもしれない。
「楽しさ」は人からもらうものじゃなく自分のなかにある
どんな楽しいことでも、熱中したあとには厭きてしまうものだ、と思っている人は多いと思う。しかし、厭きる原因は、本当の楽しさではなかったから、ということに気づいているだろうか? 厭きてしまうということ自体が、まだ楽しさの本質を知らない証拠なのである。
本書では、夢の本質を「自分を楽しませること」としている。そして、楽しさの本質は「個人のなかから生まれる発想」。
底なしの知的好奇心から生まれてくる「夢」の場合、知れば知るほど謎が多くなって、楽しみは尽きるどころか無限に広がっていく。
しかし、最近は「楽しさ」を人からもらうもの、商品として与えられるものと考えている人が多くて、自分ひとりでは楽しめない。つまり、見たい夢が描けない。
一時の楽しさに誘われて、時間と金をかけて集めてしまったゴミである。ゴミは、蓄積してあなたを豊かにするということはない。そこがゴミのゴミたる所以である。本当の楽しさは、溜まれば溜まるほど相乗効果で楽しさが増し、あなたの感性は磨かれる。だが、ゴミは溜まるほど感性を曇らせるだけだ。
楽しさは外からやってこないし、他者によって満足させられるのは夢ではない。
夢の出発点がよくわかる1冊だった。