物語を作りたいクリエイター必携の1冊として手に取ったジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』。とりあえず、ものすごく難しかった!
そもそも著者は神話学者で、バリエーションはあれど根源的なパターンはひとつしかない神話(という物語)の構造に迫る古典的名著。
幼い頃、実家にあったギリシャ神話の漫画が刺激たっぷりで印象に深く残っていたこと、大学で精神分析学の講義を受けていたことが役に立った。
一読でどれくらい理解できたかは怪しいけれど、おおよその枠組みと核心部分は汲み取れた……はず。
二つは一つ、そしてはじめから自分のなかにあったという真実
神話の基本パターンは、「英雄の行きて帰りし物語」である。
英雄がもといた場所から何かのために旅立ち、助けられたり戦ったりしながら、最終的には何かを得てもとの場所に戻ってくる(その際、英雄はよりよくなっている)。
道中には善悪があったり、もとの場所とは違う世界があったり、対立するようなものが色々あるけれど、実はすべて一つのもので、英雄のなかにあるものだったーー。
神話は夢と同じ無意識の世界にあるものを、意識的にコントロールして昔からの知恵を伝えるために生まれた、という前提に立つと、英雄は自分という個人であって、それぞれが立派に生きるためのロードマップ、といえる。
分かるような、分からないような……と悶々としながらふと思いついたのが、
(安易に親ガチャ失敗、というのはなんと未熟なことか)
ということだった。
結局、敵をやっつけるためでも、宝を探すためでも、旅した世界は実は自分のいた場所と同じであり、そこで出会う善も悪も一つのものであり、しかも全ての鍵は自分のなかにある。
とすると、親のせい、子どものせい、環境のせい、と自分の外に向く感情は投影にすぎず、語源的な問題も解決も自分のなかにしかない。
英雄として試練を乗り越えられたなら、人食い女は女神に変わり、龍は神々の番犬に変わる、というように、英雄たる個人に親の当たりはずれはない、と腑に落ちた。
自分の心を清める代わりに世の中を清めようとするのがカルト集団
もうひとつ、話は逸れるけど、カルト集団の歪んだ精神構造が分かったような気がした。
神話はイエス・キリストのように宗教にもつながっていて、それぞれのグループに信仰や約束ごとがある。
他者から過激に映ることの多いカルト集団は、部分的なイニシエーション(通過儀礼)や解決方法しか教えないことで、エゴが滅びないのが問題なのかもしれない。
エゴが滅びないとどうなるかというと、自分ではなく、所属する社会に身を捧げようとする。これは承認欲求、で説明できると思う。
所属する社会以外(人間社会の大半)に共感はなくなる。そして、自分の身を清める代わりに、そんな大半の世の中を清めようとする。
ようするに、自分が英雄になることを放棄している。そのほうがきっとラクだから。
宗教というと何となくその先に救われる集団や社会を思い浮かべてしまうけれど、神話まで遡るとすべては個人のなかに帰結する。
例えで出した親ガチャ云々が外に向かう未熟さだとしたら、カルト構造は自己放棄。
神話から物語創造の核心に触れるつもりが、人間どう生きるかという命題に迫っていくようでゾクゾクとする1冊だった。