
「家族から逃げ出したい……と、思ってしまう娘でごめん」
そんな罪悪感にとらわれて、心が麻痺したように不自由で、不快な気分が続いていた。
そう思ってしまうくらいには、自分も散々家族から傷つけられてきたはずなのに、なぜか「相手を傷つけてしまった」ことばかりが気になってしまう。
悪い方へばかり引きずられる気持ちをどうにかしたくて、『罪悪感の手放し方 「自分を責める」を生きる力に変える禅思考』を読んでみた。
僧侶である著者の本に、これまで何度も救われたことがある。だからこそ、タイトルを見た瞬間、「今読むなら、これしかない」と思った。
「今、ここ」を奪う罪悪感を善用する、という発想
悪感という感情の厄介さは、「今、ここ」に集中できなくなることだ。
禅が大切にしている「今この瞬間を味わうこと」も、ささやかな喜びを感じることも、罪悪感は奪ってしまう。
しかし罪悪感は、同じ過ちを繰り返さないためにも必要な感情でもある。罪悪感は前向きなエネルギーに変えて、善用していくこともできる、というのがこの本の教えだ。
「切り替えたい」という思いさえ捨てる
「放下著(ほうげじゃく)」という禅語が出てくる。自分の思いや経験など一切を捨てる、という考え方だ。
たとえば「悟りを得た」という瞬間がやってきた禅僧が、もう執着心さえ湧いてこないほど捨てきったと考えたとき、その師は「捨てきったという思いさえも、捨てなさい」と答えたという。
たとえそれが喜びや楽しみという感情であっても、いつまでも引きずれば、心の身軽さは失われる。それは、罪悪感や過去についても同じである。
この本を手に取るきっかけになった「気持ちを切り替えたい」という思いすらも、放下することはできるのだ。
罪悪感に苦しめられているようでいて、その思いに執着しているのもまた自分自身なのかもしれない。
「吸うのにコツはいらない」呼吸の基本
「今、ここ」に集中するには、呼吸が大切な要素のひとつ。禅の呼吸というと、深く吸うことをイメージしていたけれども、「吸うのにコツはいらない」という一文が印象的だった。
実は「いかに最後まで吐き出すか」がポイントで、吐き出してしまえば自然と深く吸い込むことができる。
日常で意識してみると、たしかにつらいときほど呼吸が浅くなっていることに気がつく。
そんなときはまず静かに息を吐き出して、自然と空気がたくさん入り込んでくるイメージを持つようにする。
ありのままの自分で「今、ここ」を生きる
この本にある罪悪感を善用するためのヒントの数々は、時に矛盾を感じることもある。
たとえば、オンライン主流の現代において「わざわざ会いにいく」ことの価値を説く一方で、「傷つけるくらいなら、物理的に黙って距離をとるほうがいい」ともいう。
一見正反対に思えるこれらの言葉も、すべては「自分がいま、ここで、ありのままでいるにはどうあるべきか」という視点に結びつく。
ありのままの自分を生きるとは「なんの努力も成長もいらない」という意味ではありません。努力や成長につながらない比較をやめなさいということです。
自分以上でも、以下でもない。ありのままの自分で、今を穏やかに生きるというのが、禅の教えなのだ。
この本の中で、特に心揺さぶられた文を引用する。
どれだけ愛と尊敬に満ちた人間関係であろうと、そこに助け合いがあろうと、「逃れられない」という一点がある限り、苦しみが生じることがあります。
決して憎いだけじゃない。けれども、関わるのが苦しい。
そんな矛盾の中で生じる痛みは、特別なことでも、自分だけの問題でもない。
こんな自分で申し訳ない、という思いすら手放して、自分は自分、という生き方が前向きで健全なのだろう。
